賀川 豊彦について

生い立ち

1888(明治21)年賀川純一の子として神戸で誕生。父純一は徳島県における自由民権運動創始者の一人で、元老院書記官・徳島県行政府の長官を務め、神戸で海運業を営んだ。

豊彦は4歳で両親を失い、1893(明治26)年父の本家である現鳴門市大麻町東馬詰の賀川家に引き取られた。賀川家は先代が組頭庄屋で藍商・富農であった。

豊彦は1900(明治33)年堀江高等小学校(現鳴門市大麻町)を卒業後、徳島中学に入学し、1905(明治38)年に同校を卒業。徳島中学時代、トルストイ、ラスキンやキリスト教社会主義の著書に触れ、非暴力・非戦・平和主義の思想を抱く。キリスト教宣教師のローガン、マヤス両師の影響で1904(明治37)年徳中4年次に洗礼を受けた。同年賀川家は父の海運業を継いだ長兄の事業失敗で破産し家産のすべてを失う。一時叔父・森六郎の保護を受けたが、明治学院高等部神学科に入学したことから、叔父に学資を絶たれ、マヤス師の庇護を受けるに至る。

1907(明治40)年、明治学院神学予科卒業後神戸神学校に移るが、その頃結核が重症となり、数度死の淵をさまよう。 


地域に生き各種の社会運動を展開

病苦による絶望の中で、1909(明治42)年貧しい人々の救済事業に携わることで生きた証を立てようとして神戸のスラムに住み込む。

生活条件の極度に悪いスラムでの救済活動の中で奇跡的に健康を回復し、ハル夫人と出会って1913(大正2)年に結婚。二人してスラムで悪戦苦闘する。

1914(大正3)年スラムでの救済活動に限界を感じ、アメリカのプリンストン神学校・大学に入学。幅広い学問をし、アメリカのスラム見学や労働運動から示唆を得て1917(大正6)年帰国した。

帰国後、”救貧から防貧”へをスローガンとして労働運動、農民運動、普通選挙権獲得運動、生活共同組合設立などの先頭に立ち、大正デモクラシーの機運を盛り上げた。

1923(大正12)年、関東大震災救援活動に駆けつけ、被害の大きかった本所にセツルメント(隣保活動の拠点)をつくって奮闘。これを契機に生活の本拠を東京に移した。


世界の平和を願って

昭和初年には、反ファシズム・平和運動に挺身し、官憲に拘留されたこともあり活動が制限された。戦後占領軍司令長官マッカーサーからいち早く意見を求められ、食糧補給などを要請し、東久邇内閣の参与として世界連邦国家運動を始めた。死に至るまでこの運動を続け、世界の著名人とともに1923(大正12)年世界の平和運動に貢献。1960(昭和35)年、ノーベル平和賞候補に推薦されたが他界により賞を逸した。東京都世田谷区松沢の自宅で病没。享年72歳。


21世紀の指針

賀川らの活動により都市スラムは昭和初年に大いに改善され、貧しい人々や労働者・農民・婦人等の権利は拡大され、彼の平和思想は世界の人々を啓発した。戦前戦後を通じて世界各地に招かれ、各国の人々に友愛・互助・平和の精神を説き、感銘を与えた。生活協同組合運動は今日もコープこうべ・大学生協・農協共済などで実を結び、彼の資金提供によって多くの社会福祉施設や幼児教育施設がつくられ活動を続けている。

賀川の提唱した友愛・互助・平和の精神は今なお混迷の現代社会に訴えかける力を持ち、21世紀を導く指導理念たり得ている。


著書

自伝小説「死線を越えて」は空前の大ベストセラーになった・その他小説「一粒の麦」「乳と密の流れる郷」、詩集「涙の二等分」、評論「精神運動と社会運動」「愛の科学」「宇宙目的論」等多数。「賀川豊彦全集」全24巻がある。


転載:『賀川豊彦(1888-1960)ってどんな人? −世界を股にかけて活躍した郷土の偉人−』

(鳴門市賀川豊彦記念館設立を目指す会・配布)