History
愛隣館研修センター変動期の始まり 1984〜 ―コミュニティー オーガナイズ―

▼研修センター設立1979年:


一階の通園施設の上に皆が集まれる場所、地域の隣保館的存在として木村 量好氏、後宮 俊夫氏の思いの元設立


平田 義 施設長就任1984年:

「何やっていい、もう好きにしたらいい、ただ今までやって来たプログラムがあるから、それは踏襲して欲しい、後はきれいに掃除しておいてや」(木村・後宮氏)


□ 当時の活動 1:ふうせん文庫

地域の子どもの文庫活動。当時向島ニュータウンは子どもが多く、1回に200人、300人はあたりまえという状況。


□ 当時の活動 2:差別と人権を考える会

―外登法[1]

1984・85年指紋押捺拒否[2]の闘争が全国的に広がっていた時期。身近におられた在日朝鮮人の方々と、地域ぐるみで、この問題を解決して行きたいという思いで集会を行う。

―日の丸、君が代[3]

1986年頃、「日の丸、君が代の強制」が学校教育で行われる中、「教育を考える会」を作っていました。


■□ 出会い1 □■

向島の「差別と人権を考える会」というのをやって行く中、団地で生活されている、いわゆる重度の障がいを持つ方との出会いがありました。車いすでの生活がしやすくなっているバリアフリー住宅が40軒/7000件ほどあり、その中で、自立されていました。

その方が施設を出られてすぐ、「私の介助者になってくれ」と、ビラをまき、介助者を集めていたのです。当時、有料介護者やヘルパー派遣などはもちろんなく、自分で介助者を集めて生活をされていたのです。

現状は、昼間の介護者がみつからない。ですから、夜の泊まりの人が朝出掛けていった後、次の夜の介助者が来るまで、独りきりでトイレも行けず、ご飯も食べられないという状態。その方がどうしてもトイレに行きたい時には電話が入り、こちらから出向き、介助をしていました。なぜ出向くのか!? センターは2階にあり、鉄製の外付けの階段しか無かったのです。上がって来てもらうということも出来ず・・・こちらから出向いて行くしかありませんでした。

そんなことをやっている中、同じような形で生活されておられる方々との出会いが重なり、本当に地域のなかで安心して暮らして行けるために、どうしたらいいんだろうと、考え始めるようになりました。


■□ 出会い2 □■

 障がい児の通園施設を卒業した子どもたちが、この同じ地域の中に住んでいました。それぞれ養護学校や育成学級に通っているのですが、帰ってきた後、地域の学童保育や、保育所や児童館に入れてもらえず、家と学校の往復でしかないという状況でした。

そこで、地域の子どもたちと一緒に遊ぼうやと、教会学校に招き、仲間として地域の中で共に育って行こうとやり始めたのです。

そういう動きをして行くなかで、少しずつ見えて来たのが、向島の地域で、障がいをもつ人たち、障がいを持つ子どもたち、またその家族のことに焦点を当てた活動の必要性でした。地域の中で安心して暮らして行けるようにするために。



[1]外登法(外国人登録法):「外登法おもしろ絵本」外登法おもしろ絵本編集委員会編 新幹社 他

[2]指紋押捺拒否:「ひとさし指の自由」 ひとさし指の自由編集委員会編 社会評論社 他

[3]日の丸、君が代:「焼きすてられた日の丸」知花昌一著 新泉社 他

1979 ― 1993199920022003