History
愛隣館研修センター変動期の始まり 1984〜 ―コミュニティー オーガナイズ―

▼向島障がい児・者地域生活支援センター『遊隣』 (1994年4月〜)


■□ ガクドー □■

 課題としてあったのは、学齢期の子ども達。

当初はボランティア・サークル「ガクドー」に登録している人たちを養護学校のバス停まで迎えに行き、「車で何処か遊びに行こうか」と出掛けたりしていました。けれども、バス停にはその地域に住んでいる他の方もおられました。登録していない人は向島という地域にいながら利用できないということのおかしさに気づき始めました。


■□ 拡大・発展〜『遊隣』へ〜 □■

地域で何等かの支援を必要としている人たちに使ってもらうため、枠をとっぱらうことを考えました。日中の活動だけではなく宿泊希望や、日曜日の利用希望など、それぞれのニーズはばらばらに有り、それに応えるには、デイサービスセンタ−という枠の中だけでは困難なものとなりました。

新しいサービスを提供できる機関を作り出そうということで出来たのが、「向島障がい児・者地域生活支援センター『遊隣』」です。決められた事業内容ではできないので、その人が必要する支援に対して、デイサービスセンターという箱を利用して、新しいものを作り出そうということで、呼び掛けたのです。


準備1:バス停で待っているお母様方に、一緒に準備会に参加して下さいと、ビラをまきました。最初の考えは、向島地域に住んでおられる方が、いざという時に使ってもらえる、24時間365日、何時でも行けるコンビニ的存在、ほっと行ける場をイメージしていたのです。


ビラをまき、センターに戻ると、すぐに電話がかかってきました。それは向島の方でなく、そのビラを見たお母さんからFAXで、こんなことをやるらしいわと聞いたお母さんです。向島地域でない方で、「平田さん、私んとこも使えるんか」と「私んとこも一緒に参加させてもろうていいのか」と、そういう声がどんどん来るわけです。お母さん方にとっては、切実な思いですね。夏休みの長期休暇の時など、お母さんと一対一で過ごさざるをえない状況があったわけなのです。


準備2:1998年の12月に、第一回目の準備会、1999年の4月から準備会3回でようやく「やりましょう」ということで、始まったのがこの「遊隣」です。障がいを持つ人の生活状況、特性や年齢などの相違に関係なく、支援を必要としている方々に出来る限り応えることを目指しました。「登録さえすれば24時間365日、何等かの形で支援しますよ」と始まった制度です。制度と言いますが、公的な制度には何も受けていませんので、登録された方がお金を出して、我々が介助者を出す、というシステムです。


★☆ 気づき2 ☆★

感じたのは結局、身体障がい者福祉法、児童福祉法といった福祉の法律がいろいろ有り、制度の隙間になっているところが、多々あるということです。これは使えるのか?使えんのか?といった時に福祉事務所に行くと、「あ、そんな制度ありませんから」と、ぽんと断られる。

例えば、「どうしても、親族の結婚式に出ないかんけども、見て欲しい。うちは車無いし、ショートステイ先にも送っていけへんから、なんとかならんのか」という時に、いや自分で行ってもらわにゃ困ります、と突っぱねられたとか、「自分が病気になって、どうしようもないから緊急で泊まりをして欲しい」(自分が病気になっているのですから、自分が連れて行くことが出来ない)とか、自分が病院へ行かんならんので、この子何とか見て欲しいという時にも、「そんなことうちでは困ります」というような話になったり、制度の透き間で困っておられることがいっぱいあります。

 特に、児童福祉法というのは、本当に何も制度がありませんから、子どもたちが学齢期で学童保育に行けて、学童保育所がすごく理解の有るところで、障がい児をきちっと受け入れてくれるようなところに住んでいる方は、4年生までまだ行けたけれども、それ以降は、じゃどうするのかというと、どこも行き場所が無いというような状態が有ります。

とにかく、何か声が上がってきたらどんどん受け入れてやって来ていたのです。


★☆ 出会い4☆★

「遊隣」の続いて来たなかで一つ大きな出会いがあったのは、いわゆる重症心身障がい者と言われる方々のうちで、医療的ケアが必要な方です。

準備会をしている時に、「どんな障がいを持った方でも受け入れますよ」と話しますと、「どんな障がいを持つ人でも受け入れると言うけれども、常時痰の吸引が必要な人でも受け入れてくれるんですか」と聞かれました。痰の吸引が必要であるという方との出会いは無く、吸引の経験も無かったのですが、「それお母さんがやってはるんですね。お母さんがやってはるんでしたら、お母さんに教えてもらって、やらしてもらいますよ」と。それがその人が生活して行く上で必要な支援であるなら、というようなことで受け入れたのです。今から考えると非常に恐ろしい、安易な受け入れだったと思いますが…。

食事の介助をお母さんと一緒にさせてもらうと、ごほごほむせは吸引してといったようなことを目の当たりにし、食べてるのか、本人の体力を使っているだけなのか分からない状況でやっていたのです。

彼らが出てこられる場所が1個でも見付かることで、お母さん方も楽になり、本人の世界も広がるのではと、なんとか受け入れたいという思いもあって受け入れたのです。

 その夏休みに、「遊隣」でキャンプしようと琵琶湖に行きました。テントを自分たちで建てるというキャンプを計画しました。重身の人たちも一緒に参加することを聞いた、養護学校の痰の吸引が必要な人の担任の先生は、「この子を殺されては困る」とキャンプに付いて来てくださることもありました。


今までと違う、『遊隣』ができ、学齢期の子どもたち、自閉症の子どもたちの横で、痰の吸引が必要な人も一緒にいるといった、すさまじい世界の中で何とか必要だから受け入れてやってきました。


19791993 ― 1999 ― 20022003